MoTeC社は、1987年にオーストラリアのメルボルンに創業。間もなく自動車エンジン用の“チューニングができる”ECUを販売開始しました。
当時はまだ、ノートパソコンも存在していない時代で、初期のECUは各回転域ごとの燃料噴射量を、ドライバーで回して調整していました。製品名も、そのままズバリ「スクリュードライバー」です。
オーストラリアには自国の自動車メーカーが無く、各自動車メーカーの現地法人がありましたが、ほとんどが輸入中古車という状態でした。
当時の若者は、輸入中古車の中からハイパワーなモデルを探したり、より大排気量のエンジンに載せ替えて速さを競っていました。その多くはアメリカンマッスルカーです。
このため、当時から現在に至るまで、オーストラリアには“速さやパワーの象徴=V8”という、信仰にも近い文化が根付いています。
(高名なオーストラリア映画・MADMAXを見直すと、改めて理解できると思います)
このような地域性から、レース用として開発したMoTeC ECUが、「違う車種に違うエンジンを搭載した際の制御装置」として人気が出始めることになりますが、そのきっかけになったのがAVO。
AVOとMoTeCの面白いエピソードを紹介します。
80年代末の当時、オーストラリアで中古車屋を経営する、一人の日本人がいました。その名はハリー小島。
小島は埼玉の中古車グループに就職していた頃、オーストラリア人がターボ車ばかり買い付けに来ることに気が付きました。この不思議な現象を確かめるべく、オーストラリアに飛んで現地を視察したところ、RX-7(SA22C)やスカイライン(DR30)などに乗る若者文化に遭遇しました。
V8エンジンのド迫力パワーに対し、軽量な車体と小排気量ターボで戦う“アンチV8”を掲げる若者が数多く存在したのです。
小島は高校時代にアメリカでホームステイしていたことが幸いし、英語が堪能。すぐに現地法人「オートピア」を設立し、中古のターボ車をオーストラリアで多数販売。正確な数字はありませんが、SA22Cだけでも500台以上販売したそうです。
余談になりますが、オートピアのハリー小島からRX-7を購入した過去を持つ車好きのオジサンが、今もオーストラリアやニュージーランドに多数存在します。
当時オートピアでRX-7を購入した彼等は、現在40代後半~50代。彼等の凄まじいまでのロータリーエンジン愛のお陰で、現在オーストラリアのロータリーエンジンチューニングは世界を牽引するレベルに到達したのです。ハリー小島の積極的なRX-7の販売が、これの遠因になっているのは間違いなく、不思議な縁を感じてしまいます。
中古車販売で大成功した小島は、オートピアの裏で趣味を始めました。単に日本の中古車を販売するだけではなく、エンジン、足回り、エアロパーツなどのチューニングをおこなうショップ、AVOの誕生です。
自分の愛車をチューニングして、タスマニアラリーなど、オーストラリアのレースに参戦。中古車をフルチューンしたコンプリートカーの販売などで、オートピアとハリー小島の名は、ますます有名になっていきます。
ある晩、小島の工場に泥棒が入り、小島が愛車のZ(S30)に装着する予定だった、新品のターボ用キャブレターが盗まれてしまいました。
朝から作業して、午後には新品のキャブでセッティングをする予定だった小島は、警察の事情徴収が済んだ後も途方に暮れていました。
そんな彼のところに、近所の会社が挨拶に来ました。
彼等は小さなガレージで、キャブではなくコンピューターで燃料噴射ができるシステムを開発したといい、是非このシステムを使って欲しいと熱意タップリに進言しました。
そのシステムこそ、MoTeCスクリュードライバーだったのです。
チューニングカーのセッティングといえばキャブ。
ソレックスやウェーバーを数多く調整してきた小島にとって、本来MoTeCなど意味不明な面倒臭い箱でしかなかったはずです。
しかし、新品のキャブが盗まれて、わざわざ同じ物を買い直すのも嫌だと考えていたタイミングだっただけに、物凄く興味が沸いてきました。
これがきっかけとなったことと、MoTeCのファクトリーが至近だったこともあり、小島は誰よりも早く、誰よりも詳しくMoTeCについて学ぶことになりました。
小島のZはMoTeCで絶好調になり、その快音から「Kojima's screamer (小島サウンド…的な意味)」と一躍有名になり、雑誌にも紹介されました。
ある日、キャンピングトレーラーを製造している会社の社長から、小島に連絡が入りました。「雑誌を読んだ。キミが作ったクルマで俺の会社を世界一にしてくれ!」なんとも熱い相談です。
詳しく話を聞くと、キャンピングトレーラーを引いて何km/h出るか…というギネスブックがあり、当時はル・マンに出場したアストンマーチンのレースカーが出した、201km/hがギネス記録でした。
小島はオーストラリアで人気の高い、フォードファルコン(直6 3900cc)をベースに、エンジンをフルチューン。AVOオリジナルのタービンキット(TO4S)を組んでMoTeC制御しました。
完成した車輌で事前テストをおこなった結果、トレーラーの重量や空気抵抗が予想以上で、200km/hどころか180km/hも厳しい状態。
さらに最悪なことに、本番の前日、テスト走行で強化ミッションがブロー。本番では、慌てて組んだノーマルミッションを使用することになってしまいました。
そんな最悪の状態で迎えた計測会の場所は、メルボルン北のマンガロール空港。
数多くのギャラリーが集まり、速度はスピードガンで警察官が計測。現地のTV中継まで入り、何台ものカメラとヘリコプターからの撮影。予想をしなかった過熱ぶり。
安請け合いしてしまったギネス挑戦でしたが、気が付くとオーストラリアの全国民が注目する状態になっていたのです。
ここで記録を出さないわけには行かない。小島はブースト圧制御のウェストゲートを全閉で固定し、ギリギリの燃料噴射量にリセッティングしました。
パワーに負けてエンジンがブローするか、過回転でタービンがブローする可能性が非常に高いものの、無事に走り切れれば記録が出る可能性があります。
非常に分の悪いギャンブルですが、204.4km/hを達成してギネス認定!
この記録は10年間破られることはなく、AVOとMoTeCの名は、オーストラリアでは絶対的な物になったのです。
(ちなみに10年後に記録を更新したのは、ダッジバイパーのツインターボ仕様)
しかし、良いことばかりは続きません。
1993年(EU発足の年)にオーストラリアは大不況に襲われました。各国の企業が続々とオーストラリアから撤退する中、最期まで頑張っていたオーストラリア日産までもが、ホールデンとの提携を解消して撤退を決定。
本当に、景気はドン底になってしまいました。
オーストラリア政府は景気対策のために、まず内需を拡大するべく輸入中古車の関税を倍にアップ。ただでさえ高い輸入スポーツカーなので、中古車販売は絶望的な状況。小島のオートピア/AVOは、大成功から一転し、ドン底まで叩き落とされてしまいました。
しかし、小島は悲観しませんでした。
「クルマが売れないなら、今度はオーストラリアから海外にパーツを売ろう」。小島はAVOブランドの各種タービンキットを開発し、中東各国や中国、ヨーロッパに数多く輸出。
AVOブランドのタービンキットは爆発的にヒットし、貯まりに貯まった赤字は2年で黒字に回復。当時を知る日本ギャレットのスタッフによると、HKSに次ぐ量を販売していたということなので、その人気ぶりが想像できます。
そんな中、日本と異なる進化を遂げたオーストラリアのチューニング界で、高性能なセラミックス製アペックスシールが話題になっていました。
実際に使用した結果も良好だったため、これを日本のロータリーチューニングの大御所、RE雨宮で販売してもらおうと、久々に日本に帰国。
その頃の日本は、GT選手権の幕が開けるタイミング。
RE雨宮ではGTカー用3ローターエンジンが組み上がった矢先で、小島はセッティングするのに何かいい物はないかと相談を受けました。
そこで小島は、迷うことなくMoTeCを推薦。
3ローターのセッティング経験はありませんでしたが、過去にル・マンに出場したマツダの3ローターはMoTeCで制御されていたので、理論的には可能です。
エンジンベンチを使用したテストの結果、MoTeCは日本製ECUよりも高い結果を出し、GT選手権用のマシンに採用されることになりました。
この結果から雨宮氏が「こんなにいい物なら、日本で売った方がいいよ!」と後押ししてくれたこともあり、小島は日本にMoTeCを広めようと決心するのです。
しかし、日本で売ろうにも、日本語マニュアルもなければ、アフターサービスができる人材もいません。
MoTeCを日本で広めるには、チューニングできる誰かが日本でフォローできる環境が必須ですが、それができるのは小島本人だけです。
小島はオーストラリアから撤退し、日本のチューニング業界でMoTeCを使ったインジェクション制御を啓蒙していく決心をしました。
日本で新規にAVO MoTeC Japanを始めるにあたり、オーストラリアのAVOは、工場長のテリーウィルソンに譲渡し「AVOターボワールド」と名称変更(その後、倅のロスウィルソンが来日して、日本支店を開業しました)。
AVO/MoTeC Japanスタート当時のモデルは、M4、M48、M8の3モデル。精密なエンジン制御に加え、詳細なログを残すデータロガーとしての需要に注目が集まりました。
そして、データロギングに特化したダッシュロガーがレース業界でセンセーショナルを巻き起こします。
21世紀に入ると、満を持してM800シリーズやM84、PDMシリーズが続々と登場。圧倒的な性能で世界中のストリートからレースシーンを席巻します。
そして現在は、CAN通信制御車輌に対応する、M1シリーズのECUをはじめ、カラーディスプレイロガーなどハイエンドな製品を送り出し、信頼のブランドとして業界トップシェアを確立しています。
AVO/MoTeC Japanは、2016年現在で開業23年。小島がMoTeCを最初に学んでから29年。
すでに日本国内だけで5000台以上が販売されていますが、20年以上前にセッティングした多くの車輌が快調に走行していることや、旧モデルの修理や部品供給にも対応できるアフターサービスを含め、末永く安心して使える高品質なブランドとして認知されています。
現在は、元チーフメカニックの高橋が、AVO/MoTeC Japanを引き継ぎました。小島の下で10年間MoTeCの配線とセッティングを行っているので、御存知な方も多いと思います。
当のハリー小島は、MoTeCを使ったもっと面白い事を探しに行きました。